2025/11/20
中田/TRC シュマイサーMP41【ビンテージモデルガンコレクション27】

Text & Photos by くろがね ゆう
Gun Professionals 2014年6月号に掲載
1971年の第一次モデルガン法規制により長物に注目が集まる中、中田/TRCから新製品としてMP41が発売された。1968年のMP40の発売時から紹介されてはいたが1品作りの試作のみで、これが最初の量産品だった。しかし人気はなく、わずか1年ほどで広告から消えている。


諸元
メーカー:中田(TRC)
名称:シュマイザーMP41
主材質:亜鉛合金
発火機構:前撃針
撃発機構:オープン・ボルト、セミ/フル切り替え式
作動方式:表記なし(ブローバックのような形式にはなっている)
カートリッジ:ソリッド・タイプ
使用火薬:平玉紙火薬
全長:86.4cm
重量:3.7kg
口径:9mmパラベラム
装弾数:32発
発売年:1972(昭和47)年
発売当時価格:¥17,500(カートリッジ15発付き)
※ smG規格(1977年)以前の模擬銃器(金属製モデルガン)は売買禁止。違反すると1年以下の懲役または30万円以下の罰金に処せられます。(2025年現在)
※ 1971年の第一次モデルガン法規制(改正銃刀法)以降に販売されためっきモデルガンであっても、経年変化等によって金色が大幅に取れたものは銀色と判断されて規制の対象となることがあります。その場合はクリアー, イエロー等を吹きつけるなどの処置が必要です。
※全長や重量のデータはメーカー発表によるものです。また価格は発売当時のものです。
4月号の「MGC P-08カービン」で書いたように、1972年は第一次モデルガン法規制の翌年となるため、各社がその規制対象外の「長物(ながもの)」へと目を向けた時期だ。
どのメーカーもすぐに新規の長物は作れないので、既存のモデルを使ったカスタムのような形で作ることが可能なピストルカービンを作った。
これにはメタルストックを装着するタイプと、木製ストックを装着するタイプとがあった。木製ストックの方が高価にはなるものの、本物っぽいから良いという意見も多かったようで、人気が出た。自分で木製ストックを仕上げ直す楽しみもあった。
そしてもちろん、ハンドガンと違って銃腔は抜けていたから、撃っても面白かった。マズルフラッシュが楽しめ、発火音も大きい。何より金属製で黒かった。
中田商店はすでに中田社長がひとつの区切りとした1969年から、モデルガンの販売は根本忠さん率いる中田商店卸部が独立して設立されたTRC(東京レプリカ・コーポレーション)という新会社に任せていた。ただし、製作予定リストに入っていながらまだ完成していない第二次世界大戦時の銃が残っており、それは継続してNAKATAブランドで作られることになっていたらしい。
たとえば、1971年に発売されたフレンチM1935Aがそれだ。中田製で販売元がTRC。そしてもう1挺が翌年に発売されたシュマイザーMP41。さらに三八式歩兵銃も同じ年に発売されているが、これはどうも前年の1971年に発売された六研の可鍛鋳鉄製の再生産である可能性が高い。オリジナルは限定製作の55,000円だったが、たぶんたくさん作ることにより33,000円(すぐに38,000円に値上げされた)で発売できたのだろう。だとすれば、金型によりNAKATAブランドで作られたモデルガンは、このMP41が最後ということになる。発売元が中田、販売元がTRC、製造元がマルシンという形だ。
月刊Gun誌2008年5月号で取り上げたウージーSMG(サブマシンガン)も最初はその形だったが、1973年にはマルシンがメーカーとしてスタートを切り、ウージーの単独広告を始めている。
MP41のベースはもちろん中田のMP40だ。1968年、日本で最初に量産モデルガンでブローバックを実現したモデル。MGCのMP40デトネーター方式ブローバックは1年ほど遅れた。
中田のMP40は月刊Gun誌2006年8月号で取り上げたが、すでに8年前となるので、あらたに伺った話も加えつつ、簡単におさらいをしておこう。
中田社長はMP40を最初は手動方式の、いわゆるスタンダードモデルとして作ったが、ブローバック化するため、設計・開発を手掛けた六人部登さんに相談したという。
しかしスタンダードと同じ火薬量の赤玉(平玉紙火薬)3粒という条件だったため、無理だと断られてしまった。そこで、当時、中田商店のモデルガンの組み立てを担当していた国本圭一さんに相談した。というのも、国本さんは映画やTV、舞台で日本初の拳銃殺陣師として活躍していて、モデルガンベースのブローバックするプロップガン(当時はステージガンと呼んでいた)を作って使っていたからだ。
国本さんは豊富なプロップガンの経験から、発火ガスが抜けるギャップ(クリアランス)を小さくして閉じこめるように「シール」すれば、少ない火薬量でも大きなパワーを得られるとわかっていた。それで依頼を引き受け、スタンダード用のカートリッジを使って、スタンダード用の前撃針のままで、スチール材から削り出した高精度なブローバックチャンバーを使うパワーシール方式ブローバックを3〜4日ほどで完成させたという。
ただし、装填をスムーズにするためカートリッジにはちょっとしたエッジや凹凸もあってはならなかったので、六人部さんに頼んで、カートリッジはすべてバレル研摩をかけてツルツルに仕上げてもらうことにした。
またスチール製の削り出しチャンバーも、ドリル加工だけでは真円度が低いため、エンドミルで補正し、さらに最後にリーマーでかすかなテーパーを付けていたそうだ。
この辺が頭で考えただけの設計ではなく、経験から得たノウハウで、他の誰も真似できない部分だった。
最後に、出荷前のテストで、銃口を下に向けてチャンバー内にエンジンオイルを満たし、火薬を入れていないカートリッジを1発だけマガジンに装填して空撃ちすると、加工・仕上げなどすべてがうまく行った製品は火薬でブローバックしたようにちゃんとカートリッジが排莢される。いわば世界初の油圧ブローバックで作動テストしていたわけだ。そして合格したものだけが出荷されていたという。
それでも、当時の一列マガジンでは15発装填はキツ過ぎてブローバック作動せず、10発くらいが適当だった。さらに、火薬カスで汚れたチャンバーとカートリッジはこまめに掃除しないといけなかった。加えて、ガスの吹きもどしによって次弾が発火してしまうバックファイアーを防ぐため、カートリッジに火薬を詰めた後、火薬孔をロウソクにこすりつけてロウでフタをしてやる必要もあった。
このノウハウは国本さんから中田社長に直接伝えられた。だから中田商店で買った人はそのコツどころを教えてもらえたが、それ以外では快調作動させる方法を知らないまま自己流でやってブローバックさせられなかった人もいたらしい。
1968年のMP40は日本初のブローバックであり、1、2発でもブローバックできたらどよめきが起っていた時代だ。充分、驚きだった。MGCのデトネーター方式が発売されるのはおよそ1年後だ。そしてデトネーター方式にも快調作動させるにはいろいろなコツがあった。
第一次モデルガン法規制により国本さんが日本を離れアメリカで実弾射撃の世界に入ることを決めた後、このMP41の発売が決まった。ということは、細かな微調整が必要なブローバックチャンバーを作れる人がいなくなったということになる。だからMP41はデトネーター方式とスタンダードの中間のような形で作られることになったのだろう。カートリッジと前撃針、そしてチャンバーとのギャップも大きく、ブローバック作動するとは思えない。そして広告のどこにもブローバックの表記はない。MP40はハッキリとスタンダード、ブローバックと書かれていたのに。
中田/ TRC のMP41では木製ストックのほかに、セミ/フルの切り替えができ、バレル下面に依託射撃用のバーがないことなどが特徴だったが、バレルナット部の形状がMP40のままだったり、分解方法もMP40と同じだったりと、急ごしらえと思える部分が多かった。それにも関わらず広告では細部まで作り込まれた試作のMP41の写真が使われ、差異があった。
残念ながらあまり人気が出なかったようで、1973年にはTRCの広告から消えてしまう。メーカー広告だけでなく、ショップの広告からも消えたので、再生産されなかったのだろう。第一次モデルガン法規制が生んだ、徒花だったのかもしれない。その意味でも貴重なモデルガンであることは間違いない。
Text & Photos by くろがね ゆう
協力:国本圭一(WA)
撮影協力:ます兄
Gun Professionals 2014年6月号に掲載
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