2025/04/29
【NEW】GUN HISTORY ROOM 118 シン・南部式拳銃3 南部式自動拳銃の客観的評価
GUN HISTORY ROOM 118 シン・南部式拳銃3
南部式自動拳銃の客観的評価
Text by 杉浦久也
甲型の輸出が頓挫し、陸軍における乙型の制式制定が却下されても、南部式自動拳銃は海軍向けの随時契約と将校用小型拳銃という形で、その生産を継続し続けた。そこには何か、この銃を生産継続させなくてはならない別の理由があったのではないだろうか。
日本における一般的な認識
2018年8月に発行したホビージャパンMOOK『日本軍の拳銃』の中で、筆者は南部式拳銃について、以下のような評価を記している(一部、言い回しを修正)。
“南部式拳銃は、まともに作動したのだろうか。筆者はこのことをずっと疑っていた。なぜなら南部式拳銃は甲号、乙号、小型をすべて含めても16,000挺余りしか製造されておらず、輸出された甲号のその後は詳細が不明で、海軍の艦艇備え付けとなった乙号は実働の少ないポジションで死蔵に近い形であっただろう。南部式小型拳銃もまた高級将校の愛玩品に終始したものが多く、その大半が実用に供されないままその役目を終えてしまったと考えられる。ようするに、甲号・乙号・小型のどれも、実戦で本格的に使用された銃ではないのだ。
しかし、筆者は2018年5月にテキサス州ダラスのTurk Takanoさんを訪問し、ご厚意でこの南部式大型拳銃乙型を射撃する機会を得た。東京工廠製のシリアルナンバー3456は、製造からは100年以上が経過している。しかしこの個体は快調に作動して、とてもマガジンが錆びて穴が開いた状態とは思えない作動性能を見せてくれた。
南部式拳銃の様々な不具合や、設計の不合理については本稿で書いてきたし、同時代の他国で製造された拳銃はもっと高性能のものが多かっただろう。しかし明治維新からわずか4 0年足らずという時代、それも自動拳銃の黎明期に、後発工業国の日本で作られた拳銃が100年の時を経ても快調に作動するという事実は、特筆すべきことだと考えられる。この水準の自動拳銃を、機械文明がゼロの状態から、たった4 0年足らずで作ったのだ。これはとてつもなく凄い事だというのが、今、筆者が南部式拳銃に対して感じるありのままの評価だ。”
若干言い回しを修正しているが、以上のように書いている。しかし、あれから7年近くが経過した今、これは正しい分析だったのかという疑問もないわけではない。
筆者以外の銃器関係者も、南部式に対しては概ね同様の見解をお持ちのようなので、これは日本における一般的な認識に近い。

南部式自動拳銃は失敗作であった
しかし、この評価は極めて主観的で、いわば日本人の負け惜しみ的感覚に基づくものと言えなくもない。なぜなら南部式拳銃よりやや早くに登場した、パラベラム(ルガー)ピストルは200万挺以上、同じくマウザーC96とそのバリエーションも、合計で100万挺以上が生産されたのに対し、南部式拳銃は甲型、乙型、小型を合わせても、その総生産数は2万挺にも満たないといった結果でしかない。
拳銃が実用に供する工業製品である以上、その生産数は普及率とイコールで在り、それがその銃の実績であるとすれば、南部式拳銃の実績はパラベラムピストルの1/100、マウザーC96の1/50以下ということになってしまう。もちろん、パラベラムピストルの製造期間は1898年から1946年、またマウザーも1896年から1939年までと長期間に及ぶため、本来比較すること自体に無理があるのだが、“結果がすべてである”とするなら、こういう比較もやむを得ないだろう。
南部式拳銃は1904(明治37)年という、パラベラムピストルやマウザーC96よりやや遅い時期に登場しているので、設計はより合理的になっており、20世紀初頭においては実用性も高かったことから、さすがに外国人の銃器関係者も、南部式はパラベラムピストルの1/100の価値しかないなどという評価はしないであろう。しかし、“結果がすべてである”とするなら、生産数が少ない南部式拳銃は、酷評されても仕方がない要素を孕んでいるということを、我々日本人は理解してもおくべきだろう。
これは、南部式拳銃に関する様々な枝葉末節をそぎ落として、その誕生から終焉までの時系列を記した先月と先々月の連載を更に要約すると良くわかる。
甲型開発の目的
東京砲兵工廠が官営工場であるために、小銃や拳銃は陸軍の必要数が調達されると、いきなり操業が止まるという端境期問題があり、海外への製品輸出によってこの問題を解決しようとして開発されたのが南部式拳銃甲型だ。
しかし、実際のところ海外へ輸出できたのは2,400挺程度で、これが偕行社記事に掲載された「自働拳銃」(この”働”は誤字ではない)所収の販売価格25円で販売されたとすれば、その売り上げは6万円でしかない。
これを現邦貨に換算するため、係数として5,000倍を掛けてみても3億円(1挺当たり現邦貨125,000円)でしかない。フル稼働すれば年間30万挺の小銃を生産できる東京砲兵工廠の製造力からすれば、南部式拳銃甲型の開発目的である端境期問題の解決に大きく資したとは言えない。
もちろん、作った拳銃が海外市場で評判になり、飛ぶように売れなければ、大きな工場を維持するだけの売り上げにはならない。端境期問題解決を南部式拳銃だけに求めるのはそもそも無理があったのだ。
結果的に南部式拳銃甲型はその登場から5年ほどで、主な販売先であった中国での売り上げ不振から製造が中止される。
乙型を生産継続
輸出が不調になったため、一部を改修した南部式拳銃乙型を明治41(1908)年に製造し、翌年陸軍での制式制定を試みるも、陸軍大臣寺内正毅の反対で制式制定の望みは潰えてしまう。
おそらくこの際に、乙型をスケールダウンして固定照門とした南部式拳銃小型が登場し、将校用として払い下げが始まった。
陸軍での制式制定の失敗を受けて、南部式拳銃乙型は明治42(1909)年に海軍での随意調達を打診してこれが承認され、翌明治43(1910)年頃から海軍での調達が始まり、これによって生産が継続された。
しかし、この時点ではすでに三八式歩兵銃の採用量産により、東京砲兵工廠の端境期問題は解決していた。またその後に第一次大戦の勃発により、外国からの小銃生産要請が大量に舞い込んでいる。すなわち東京砲兵工廠としては、南部式拳銃を製造しなければならない理由は既に無くなっていたのだ。それでも南部式拳銃を製造し続けようとした理由は後述する。
そして大正8(1919)年には、外国からの小銃受注で製造能力が限界に来ていた東京砲兵工廠に代わって、民間の東京瓦斯電気工業が南部式拳銃乙型を生産し、海軍に納入するようになった。南部式拳銃小型はそのまま生産を継続、乙型の製造は東京瓦斯電気工業に任せた状態だ。但し、その時点でもいずれは乙型の生産を再開することが想定されていたらしい。
しかし大正12(1923)年に起こった関東大震災で、東京砲兵工廠が壊滅的打撃を受けたことで、元々制式制定されていない南部式拳銃乙型と小型は、東京砲兵工廠での生産は終焉を迎えた。
この時点までに東京砲兵工廠で保管されていた南部式拳銃乙型の仕掛部品と、製造中だった小型の部品は東京瓦斯電気工業へ持ち込まれ、不足の部品などを生産する形での生産が続いた。そして大正の末年頃に東京瓦斯電気工業での南部式拳銃すべての生産は終了する。
こう書いてしまうと、南部式拳銃は誕生から終焉まで、身も蓋も無いほど順風満帆とは真逆の歴史しか持っていない。
結局のところ、南部式拳銃は制式制定が行われなかったことが、製造数の伸びなかった最大の理由だ。もし陸軍が採用していれば、十四年式は作られず、第二次大戦の終わりまで南部式拳銃の生産が継続して、30万挺程度が製造された可能性がある。
陸軍でこうした大型軍用拳銃を使用するのは主に下士官兵であり、制式が制定されていれば陸軍が調達し、貸与される。しかし、当時にあって、その位置にあるのは二十六年式拳銃であり、制式制定されていない南部式拳銃甲型乙型がそこに割って入る余地はない。
もちろん南部式乙型拳銃に関しては、昭和期に兵器廠から100挺単位で陸軍部隊に支給されている史料もあるので、下士官兵に貸与する兵器簿に載った南部式拳銃もごく一部にはあったのは事実だ。しかし、その数は少ない。
南部式拳銃小型
拳銃の国内事情を考えれば、最も需要があったのは将校用拳銃で在り、そうした目的で作られた南部式小型拳銃は、15年ほどの生産期間に6,500挺ほどを生産している。これを1年当たりで割ると433挺になり、すべてが将校の手に渡ったわけではないとしても、南部式小型拳銃は将校用だったと考えるのが妥当だ。
余談だが、南部式小型拳銃が将校にどのように使われたかの一例として、「昭和二十一年三月十三日 第百十師団歩兵第百十連隊 私物兵器移譲者連名簿」アジ歴リファレンスC15010630100という史料がある。
これは中国の洛陽付近で、敗戦時に中国国民党軍によって日本軍が武装解除された際に1挺だけではあるが、南部式小型拳銃が国民党軍に引き渡されているという史料だ。
持ち主は第百十連隊長中村武男大佐だが、この人物を調べてみると陸軍士官学校27期卒業で、大正4(1915)年12月25日に少尉任官している。
陸軍大学校卒業生名簿に名前がなく、陸士27期の陸大卒業者は敗戦時中将に進級しているから、いわゆる無天(非陸大卒)の古参大佐連隊長ということになる。
ということは、この南部式小型拳銃は、陸大卒業優等者に送られる恩賜の拳銃ではなく、おそらく少尉任官時に私費購入し、31年間使い続けたものということになるだろう。
また第百十連隊の他の将校が、敗戦時に引き渡した実包は数量が少なく、中村武男大佐の25発が最も多い。この25発というのは南部式小型拳銃嚢の収容数に合致する。
使用実包の7mm南部弾は、50発入りパッケージだったから、もしかすると31年間でこの50発中、25発を消費したようなことも想像させられる史料といえる。
話を元に戻そう。南部式拳銃の誕生から終焉までを見てみると、とにかく陸軍制式が制定されなかったことが、生産数が伸びなかった最大の原因だ。海外市場での評価も芳しくなかったことで、国内に向けて販売するしかなかったのだが、軍用以外ではその需要は限られたものでしかない。
南部式拳銃小型は乙型のスケールダウンモデルで、1908年から1923年まで東京砲兵工廠で約5,800挺が生産された。これだけ生産されたのは、将校用拳銃という明確な市場が国内にあったからに他ならない。そしてこの間に、第一次大戦がヨーロッパで起こり、日本の市場に向けた拳銃輸出がストップしたことが南部式拳銃小型にとっては追い風となっている。その当時、新任将校が拳銃を調達しようにも、選択肢が少なかったので、必然的に南部式小型を購入したというケースが多かったと推測する。もし戦争が起きず、ヨーロッパからコンスタントに小型拳銃が輸入されていたら、南部式拳銃小型の生産数はもっとずっと少なかっただろう。
マウザーC96との比較
南部式拳銃甲型の主要輸出先であった中国では、間違いなくマウザーC96との競合があったと思われる。しかし、結果として南部式拳銃甲型は全く太刀打ちできなかった。
マウザーC96と南部式拳銃甲型で、何がここまでの優劣を付けたのだろうか。
まず弾薬の威力については、マウザーC96の7.63×25mm マウザー弾が5.6 g (86 gr)の FMJ弾頭で、初速430 m/s (1,400 fps)で初活力は508 J (375 ft.lbs)であるのに対して、南部式拳銃甲型の8×22mm南部弾は102 gr (7 g) FMJ弾頭で、初速315 m/s (1,030 fps)で初活力は333 J (246 ft.lbs)でしかなく、南部式拳銃はマウザーC96に対して65%程度の威力しかないことになる。
またマウザーC96は軽い弾頭を高初速で発射するので、弾道がフラットになり、射手には撃ちやすく、当てやすいと感じるだろう。
さらにこの時期の流行で、南部式拳銃甲型もマウザーC96も、ショルダーストック兼用のホルスターを装着してピストルカービンにできるのだが、この場合も威力で勝るマウザーC96が優位であろう。
次に携帯性であるが、これは銃把内着脱弾倉の南部式拳銃甲型に軍配が上がるように思える。但し、この時期の着脱式弾倉の装填には落とし穴もあり、初期のルガーパラベラムピストルもそうだが、南部式拳銃でも弾倉スプリングは丸巻のコイルスプリングだ。マガジンフォロアーは長方形だが、弾倉スプリングはマガジンの中心に位置しているのでシーソー運動をしやすい構造になっている。さらに、弾薬は、先細りのボトルネックタイプだから、装填前の弾倉内弾薬は弾頭に上向きの仰角がついている。
そして、弾倉内の弾薬は、ボルトが解放されると弾頭に上向の仰角がついている状態になるが、ボルトが閉じると水平に近い角度で収納されることになり、弾薬はシーソー運動をしながら薬室に給弾される。これらは全て作動不良の原因となる要素だ。
これに対してマウザーC96は、ボルトアクションライフルでタイムプルーフのある固定弾倉のクリップチャージ式で、弾倉スプリングは板バネを重ねたものだ。この時期に限定して言うなら、装填の不便さはあるもののマウザーC96の方が作動は確実だっただろう。
さらに中国に売り込まれた南部式拳銃甲型とマウザーC96の価格だが、南部式拳銃甲型は先にも述べたように25円で、ドル換算すると12.5ドルになる($1=¥2換算)。一方、マウザーC96の価格は、1899(明治32)年のアメリカの銃砲店販売価格で35ドルだという広告が残っている。
ここには銃砲店や輸入代理店のマージンが入っているので、仮にマウザー社が政府機関を通じて中国の軍隊や警察機構へ納入した場合、アメリカでの銃砲店価格の半額程度が納入単価と考えれば17.5ドルと想定される。
こうしてみると、価格以外は南部式拳銃甲型に優位な内容はないが、数十挺から100挺単位で中国の広範な軍隊や警察組織にいったんは購入されながら、その後の再注文はほぼ無かったという残念な事実を、南部式拳銃の評価基準に入れてもよいだろう。結局、中国大陸での人気はマウザーC96の圧勝だったのだ。
なぜ南部式拳銃は作り続けられたのか?
筆者は本稿を書いていて、南部式甲型拳銃の海外販売が不振で端境期問題に資することがなかった段階で生産を打ち切っていれば、その後の不振をかこったままでの迷走はなかったと思うようになった。もちろんこれは後世の後講釈ではある。
ではなぜ、南部式甲型拳銃の輸出が頓挫した後も、陸軍制式を制定しようとしたのだろうか。
これについては東京砲兵工廠と陸軍技術審査部との間で事前協議され、ほぼ制式制定されるという目途が付いていたからであろう。
通常制式制定審査は、陸軍技術審査部が主宰し、採用判定をしたうえで合格となれば陸軍大臣に制式制定上申を行なうのは陸軍技術審査部長だ。そして南部式乙型拳銃を「四一式拳銃」として制式制定上申を行なったのは、時の技術審査部長である有坂成章だ。
普通なら陸軍技術審査部長が、陸軍大臣に制式制定を上申すればほぼ自動的に認可され、制式制定となるはずだった。
それが異例にも陸軍大臣の一括で却下されたというのが、二度目の南部式拳銃の不幸の始まりだったのだろう。ここには工廠現場の現実と、陸軍省の予算のせめぎ合いという問題が露呈しているといえる。
有坂成章が「四一式拳銃」の制式制定を上申したのは、明治7(1874)年に東京砲兵工廠の前身である造兵司に出仕して以来、明治26(1893)年から2年間東京砲兵工廠長を務め、一貫して造兵畑を歩んできた経歴から、砲兵工廠の端境期問題を熟知していたからに他ならない。
この問題は、砲兵工廠に仕事がないとなると、歩合給が取れなくなる熟練工がより手当の良い職場へ流出するに繋がる。
大正期の東京瓦斯電気工業で南部式拳銃を、フレームの2分割やボルトリセスを分割して製造したのは、高い技術を持つ熟練工がいなかったからだ。
東京砲兵工廠に、多数の専用工作機や治具、あるいは後のリミットゲージ法などの製造法があったなら、それらは技術移転が可能であり、東京瓦斯電気工業でのような製造法は必要ない。
つまり東京砲兵工廠で複雑な南部式拳銃のフレームをワンピースで削り出せたのは、東京砲兵工廠が経験豊かな熟練工を抱えていたからだ。
ただ南部式拳銃が「四一式拳銃」として制式が制定されようとした時期は、三八式銃の制式が制定されて製造を始めた時期でもある。それを考えると、この時期の東京砲兵工廠は端境期にあったわけではないはずだが、なぜか「四一式拳銃」の制式を制定しようとしている。
これは東京砲兵工廠のメインとなるラインが小銃製造用のもので在り、それ以外の銃器、この時代であれば機関銃と自動拳銃は、熟練工が手工芸的技術で製造していたからなのだ。
ある意味、明治30年代終盤の日本で、機関銃や自動拳銃といった自動火器が曲がりなりにも製造できたのは、これらの熟練工が東京砲兵工廠にいたからと言える。
建軍から日露戦争までは、小銃の発展期でモデルチェンジも頻繁にあり、同時に陸軍も膨張してきており、多少の端境期はありながらも東京砲兵工廠も発展してきた。
この間に東京砲兵工廠では、高度な手工芸的技術を習得した熟練工を蓄積していった。有坂成章や南部麒次郎らはこれらの熟練工を手放さないために「四一式拳銃」の制式制定を目論んだのだ。
但し、これを受けた寺内正毅陸軍大臣は、後に内閣総理大臣にまでなる政治性を持った人物であった。日露戦争で余剰になった三十年式銃40万挺をモスボールとして(三十年式銃と三八式銃の相違はボルトとエキストラクター程度だから、三十年式銃の不具合改善は改造でも間に合ったはずだ)、新たに三八式銃30万挺の新造を認めているのに、その上さらに自動拳銃の制式制定まで上申してくるとは、いったいどういうことかという思いだっただろう。
その背景には当時の日本は、日露戦争の戦費として募った外債18億円(国家予算の3倍近く)の返済を迫られるという事情もあった。
結果的に見れば、寺内正毅陸軍大臣の異例の制式制定却下の判断は正しかったといえるが、この時期陸軍は第二次日露戦争の勃発を警戒しており、その場合には機関銃の生産が重要課題だといえる。
こうした状況を考えると、南部式拳銃の生産継続は機関銃を生産できる熟練工を手放したくないということの方が重要だったのではないだろうか。
ここで熟練工を手放してしまえば、機関銃を生産できなくなるので、それを繋ぎ止める方途として南部式拳銃の生産継続が重要だったのではないだろうか。
そうでなければ、それほど多くもない海軍の発注を頼み込んでまで生産を継続した理由が見当たらない。
そして東京砲兵工廠が関東大震災で壊滅的打撃を受け、九州小倉への移転が決まってしまった時点で、南部式拳銃の製造を継続する意味はなくなった。これにより南部式拳銃はその役目を終え、表舞台から退場している。
Text by 杉浦久也
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